
デジタルコンテンツの世界は、この30年で驚くべき進化を遂げました。その変遷を最前線で見てきた人物が、デジコン株式会社の創業者であり現会長の山口秀樹です。
1995年の創業から現在に至るまで、山口はデジタルコンテンツ配信の先駆者として、数々の革新的なプロジェクトに携わってきました。Windows 95の登場、インターネットの普及、動画配信技術の発展。これらの大きな変化の波に乗り、時代の変化に対応しながらデジコンは成長を続けてきました。
本コラムでは、山口へのインタビューを通じて、デジコンとデジタルコンテンツ業界の歩みを振り返ります。会長の山口自身の言葉で綴るデジコンの歴史をお楽しみください。
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1995年:創業元年
ー今年の9月でデジコン㈱は創業満30周年を迎える
山口:最初は銀座のオフィスで自分を含め4名の小さな会社で始めたので、ここまで継続できたのは感慨深いものがあります。創業当時は「Windows95」が発売されたタイミングという事もあり、インターネット関連雑誌からPCの撮影や、ノンリニア編集等を多く受注していました。
ー当時はまだ「動画配信」という名称も普及していなかった
山口:そのころ動画配信をしていた企業はほとんどいなかったと思います。トライアル的にビデオ制作会社と一緒に動画配信をしていた頃でしたから。
ー衛星からの通信を中継していた時代だった
山口:まだ衛星通信が主流だった時代でしたが、月に何本かは企業内に設置した動画配信サーバーからインターネット配信するというトライアルもしていました。メーカー企業様の自社製品を紹介する30分番組をインターネット配信させて頂いていました。
1996年:技術検証参加
ーこの頃は各機関の検証実験にもよく参加された
山口:ISDNがまだない時代だったので、当時の光ファイバー配信実験に参加したり、「ワンソース・マルチユース」というコンセプトで、サーバーがダウンしないかどうかの実験など、色々参加させて頂きました。
ー海外に向けて動画配信をしていた
山口:某国際的企業の海外支店や事務所向けにも配信していました。動画配信サーバーを本社に設置し、世界中の社員が社長の挨拶や指示などをライブ配信で見れるように対応させて頂きました。
ーメディアにもよく登場されていた
山口:確かに、ありがたい事によく記事にして取り上げて頂いたり、登壇もさせて頂きました。

1996年当時の山口会長参考記事
1997年:日本初の公営競技インターネット配信
ー岩手競馬場でインターネット配信を行った
山口:日本で初めて公営競技の動画配信を行いましたので、当時はかなり話題になったと記憶しています。岩手競馬場が公営競技の視察コースになっていましたので、お問い合わせもよく頂きました。岩手競馬場のライブ配信システムを元に、全国の公営競技場も配信システムが普及しました。様々なジャンルの公営競技を担当させて頂いた事もあります。デジコンの名前が知れるようになったのは、岩手競馬場の事例の影響が大きかったですね。
1998年:地上波放送初有料インターネットライブ配信
ー地上波放送初のリアルタイム有料ネット配信を実施した
山口:これもとても思い出深い体験でした。当時テレビ視聴率40%を誇った人気テレビ番組を有料課金制で、テレビ放送終了後の24時間に渡り、インターネットライブ配信を実施しました。インターネットの草分け的存在の会社が課金部分を担当し、デジコンがライブ配信を担当しました。
ー24時間全裸生活をライブ配信
山口:その全裸生活を24時間ライブ配信した結果、「世界初リアルタイムモザイクネット配信」だったと思います。モザイク担当者がモザイクバー(モザイクをかけるための編集用レバー)に割り箸を括りつけて、微妙な動きにも対応できるように工夫していたのが面白く印象深く覚えています。
モザイク処理が間に合わない場合は、「LANケーブルを2秒以内に抜く」(エンコードに2秒かかった為2秒以内に抜けばセーフというマニュアルがあった)というのを徹底してスタッフの方々も臨んでいました。
テレビ放送終了が23時だったので、23時半位からライブ配信をスタートし、翌日の23時半まで動画配信を続けました。この配信企画はとても好評でしたので、テレビ局のホームページにアクセスが集中してWEBページがダウンしてしまったタイミングがありました(※ライブ配信はトラブルなく終了)。「これはバナーを入れないと」となり、急いでトップページに「テレビ局側」「ライブ配信側」と分割して頂いてからはスムーズに、24時間生配信で成功を収めた事例でした。この年の「ウェブ・オブ・ザ・イヤー」も受賞した企画でしたので、忘れられない経験になりました。
ーテレビ局のプロレス動画編集、オンデマンド配信をスタート
山口:24時間ライブ配信の成功が反響を呼び、各テレビ局からのお仕事に繋がるようになりました。この頃からインターネット配信業務を、テレビ局がデジコンに依頼して下さるようになりました。例えばプロレスのように原版が1本しかないコンテンツを弊社に依頼して下さるのは、信頼関係が築けていたからだと思います。昔のプロレス映像のエンコード事業などは長年依頼し続けて下さいました。
ーこの年にはサッカーW杯日本代表戦のライブ配信も遂行した。
山口: フランスで行われたFIFAワールドカップサッカーの日本代表戦を国内視聴者向けに、無料インターネットライブ配信させて頂きました。国際映像で転送された映像を日本から配信する、という仕組みです。初のワールドカップ戦配信という事もあり、この当時で同時接続数は数万人を記録していました。これも当時話題になった業績です。
1999年:ヴィジュアル系バンドのメディアジャック
ーフルメディアジャックで配信した
山口:ヴィジュアル系バンドの無観客音楽ライブですね。「テレビ・ラジオ・インターネット」の3メディアでやろうという企画でした(デジコンはインターネット部分を担当)。ビッグサイトを貸し切り、炎を使用・演出した無観客ライブ映像を配信しました。その後にシークレットでゲリラライブを行うという演出で、バンドメンバーが新宿アルタ前に移動したのですが、なぜか観衆にはバレてしまって大混雑となりました。26年前にこのような企画ができた事例はなかなか無かったと思います。現場では色々なハプニングも起きますが、その時の最善を尽くして業務を全うし、今に至ります。
ー「ル・マン 24時間レース」も配信した。
山口:当時フランス自体がほとんどインターネット環境がなく、ましてやル・マン島は電話回線しかなかった状況でした。電話回線を使用して現地から日本までエンコードし、映像を送りライブ配信を行ったり、レースクイーンの番組を撮影したり、海外ならではの大変さを実感した体験でしたね。

1999年当時の山口会長参考記事
まとめ
このインタビューを通して、デジコン株式会社の創業期から1990年代後半までの歩みを山口会長の視点からお伝えしました。技術の変化が激しかった時代に着実に歩みを進めてきた軌跡には、山口会長が語る創業期の苦労や喜び、そして変化する環境への対応力が表れています。これらの経験が、現在のデジコンの事業展開の確かな基盤となっています。
30年以上にわたり培ってきた動画配信のノウハウと技術力。今も年間300日以上のライブ配信を手がける実績は、お客様のデジタルコンテンツに関する様々な課題解決に活かせる強みです。時代とともに変化するデジタル環境において、長年の経験に基づいた確かな視点でお客様のニーズに応えます。
デジタルコンテンツでのお悩みやご要望がありましたら、ぜひデジコンにお問い合わせください。お客様の目的に合わせた最適なソリューションをご提案いたします。
